幸福量の話
人間が人生で得られる幸福の総量は、一定なのではないかということ。
ふたつの仮説がある。
ひとつめは、人間が人生で得られる幸福の総量は、どんな個人も同程度に収束するのではないか、ということ。
ふたつめは、個人が人生で得られる幸福の総量は、例えどんな選択をし、それがどのような結果をもたらしたとしても、結局は予め決められた程度に収束するのではないかということ。
ひとつめの話。
これは「上を見ても仕方ない」というのを自分に納得させる考え方に過ぎない。
でも、そう思えたら、なんとなく気が楽だ。
満足が新たな不満足を生む。
どれだけ有名人になったって、どれだけお金持ちになったって、人は完全ではない。
完全ではないから、どうやったって自分の満たされない部分に目が行く。それをクリアしたら、次の欲求が生まれる。欲求の誕生は即ち不満足≒不幸だ。
つまり人間は結局満たされることなんてないんだから、人間の幸福の総量は皆ある程度一定なんじゃないかっていうこと。
ふたつめは、単純な運命論。
自分の人生がどう転がろうと、それが自分。
何かを目指して努力できる人と、できない人。
努力できる人になりたくて、そうなれる人と、なれない人。
例え自分が「自分を変えたい」と思って何か行動したとして、それは「自分が変わった」訳じゃなくて、「自分を変えられる自分だった」というだけ。
結局自分は自分だから、あの時こうしていれば今頃、とかそんなのはマジで無駄。自分は自分でしかない。
だから自分の幸福量なんていうのはそもそも決まっている。努力しなかったこと、運が悪かったこと、それは過去の自分が未来を変えてしまった訳じゃない。これが決まった未来だったというだけ。
じゃあ努力することが無駄なのかと言うとそういう意味じゃなくて、努力できる自分なのかどうか、報われる自分なのかどうかというのも、やってみなければ分からない。
やってみてダメだったから、諦めるのか、またやってみるのか、どっちを選ぶのかも自分でしかない訳だ。
もしかしたらそれは自分がどうこうより、他人がどうこうというのを考える時にいいかもしれない。
他人が羨ましい、でも自分はそうなれない、なぜなら自分は他人じゃないから。
じゃあその羨ましい人を目指して頑張れるか。頑張れないとしても自分を卑下する必要はない。それが自分だから。
結局何かって
自分は自分、これから自分がどうしようと、その結果未来がどうなろうと、それは未来が変わったわけじゃなくて、自分がそういう自分だったというだけ。
でもそれじゃ、希望のあった未来が現在になって「この程度だったのか」って失望することになる。それはしんどい。
じゃあみんな幸せって同じくらいでしょと思っちゃえばいい。
まあ思えるかどうかは自分次第だよね。
だから結局幸せになれるかどうかっていうのはどこかで諦めることが大事なのかもしれないね。
ミルが「満足した愚者より不満足なソクラテスが良い」と言って人の喜びにレベルを付けてより高級な喜びを得ることを目指した(のかな?)としても、それは相対的に「満足した愚者より自分は幸せなんだ」と思うということで。けど逆に「それでも私には知らないことがたくさんある」と満たされない欲求を抱えることにもなる。
それなら満足した愚者であるほうが、自分は幸せだった、と死ぬことができるんじゃない?
でも満足した愚者になりたくないよね~それは不満足なソクラテスに見下されたくないからなんだよね。
結局他者の視線を自分から切り離すことが幸せへの一番の近道かもしれないな
逆に言えば他者からの視線を自分の幸せと結びつけて
どこの大学とかどこの会社とか年収とか家の大きさとか車とかそういう尺度で幸不幸を積み重ねるタイプの人は、他者からの視線で幸福になって他者からの視線で不幸になる。
じゃあそうじゃなくて自分の欲求に素直は人は?
どうなんだろう。そうじゃないからわからないや。
結局「満足した愚者より~」っていうのも人と比べた自分に過ぎないんだよな~
自分は自分の及ばない世界を感じることはできないからな~~~~
等と眠い頭で考えても結局答えは出ないわけで、そもそもめちゃめちゃ眠いから言ってることもめちゃくちゃだと思うからまた推敲したいなとは思うけど
まあそういうことは哲学者様に教えてもらうのがいいかもしれないですね
「幸せになりたい」というときの幸せってなんなのか、考えないとね