生きることと善いこと
友人がガンだと聞いた。
同い年の友人だ。21歳。
僕はよく「いつか死ぬ」「どうせ死ぬ」なんて言っていたけど、
こんな年齢で目前に「死」を意識させられる人がいることを、自分事として実感した。
自分は、生き物に必ず来る「いつか」を、ほぼ無意識的に「だいたい40~60年後」だと思っていた。
でもそうじゃないんだ。
明日死ぬかもしれないし、来年死ぬかもしれない。
人生に残されている時間は誰にもわからない。
だから「40~60年後」をあてにすることがとたんにバカらしくなった。
そうなると、「30歳で何万稼ぐ」とか、そんなことも自分が30歳になれるという前提のもとでしかなく、
じゃあ自分が30歳まで生きられなかった時に、この人生には何が残るのかと言われると、
きっと何も残らない。
じゃあ、自分は今日を、明日を、来月を、来年を、どう生きるべきなんだろう。
そんな風に思ったのがひとつ。
もうひとつが、
その友人の為に「何がしてあげたい」「助けになりたい」と強く思った。
めちゃくちゃ仲が良い訳じゃないけど、色々助け合ってやってきたから、できることはしてあげたいと思った。
でも、もうひとりの自分がこう諭す。
「『友人がガンになった』ことを自己満足に利用していないか?心のどこかで非日常にワクワクしていないか?」
そう思ったとき、「していない」と断言できなかった。
なんて声をかけようか考えた。そして、それを聞いた友人がどう思うか考えた。
「これなら助けになれるかな。」
その先には助けられた友人の顔が浮かび、「ありがとう」という感謝の言葉が浮かぶ。
その時に、「ガンになった友人を手助けする自分」を想像する自分に気が付いた。
所詮、他人事だ。
他人事は他人事でしかなく、どれだけ自分事として心配して、同情しようとも、それは他人事でしかない。
もちろん、例えば「そんなことしなくていい」とか、「あなたには私の気持ちはわからない」とか、そんなことを言われたとしても、「それはそう」と思うし、それでも何か助けになれることがあればやってあげたいと思うから、感謝されるために何かするわけじゃない。「したいから、したい」というのは事実だ。
でも、そんな「したいから、したい」自分に酔っている自分はいる。これは間違いない。「したいから、したい」と思って、何かしてあげることで、自分という人間がよりよい人間になったような実感を味わいたいと思っている自分は、確実にいる。
そんな自己満足に、大変な状況にいる友人を利用することになるのは不本意だ。
矮小な事例だけど、彼女に振られたときの自分は、ただ適当に話を聞いてくれる人がいることが本当にありがたかった。
辛い時人が何かしてくれる時、その人がどういう思いでそんなことをしているのかなんてどうでもよくて、ただありがたかったし嬉しかった気がする。
でもこれは矮小な事例だ。
彼女に振られた男の気持ちはわかるだろうが、21歳でガンと言われた人の気持ちは分からない。
逆に言えば「普通の人でも彼女に振られた男の気持ちくらいわかる」ことをわかっている。
そして「普通の人には21歳でガンと言われた人の気持ちがわからない」ことをわかっている。
自分がやろうとしていることは、「他人にとって」善いことかもしれない。ただ、それは決して絶対的に「他人の為の」善いことではない。
その受け入れ方が、これまた難しい。