衝動のごみ捨て場

書きたくなったから書く、、

村上春樹が好きなんだけど

村上春樹が好きであることには

村上春樹の文章が好き

村上春樹を好きな自分が好き

の2つがある。

 

まあこれは好きになるっていうことに対してすべて言えることで

何かを好きになるということは、

「自分がそれを好きである」ということと

「それを好きな自分のことも好きである」ということが

両立しないと

人間は何かに対して好きという感情を持てないと思う。

「それを好きな自分のことが好きじゃない」みたいなこと

結構あるんじゃないかな。

例えば有名なバンドと無名なバンドがあって

同じような音楽をやっているとして

有名(だけどなんか流行りモノってイメージ)なバンドだと

その音楽は確かにすきなんだけど

それを好きな自分は、流行りものに乗っかってるみたいでなんか好きじゃない

一方で無名バンドの場合は

その音楽は確かに好きだし

それを好きな自分も、通っぽくて好き

で結局好きなバンドになるのは無名なほうだったり

逆に無名だと自分の判断を信用できなくて

有名だと、有名であることに背中を押されて、

それを好きな自分というのを肯定できるという人もいそう。

 

要するに

人間はみな何かを選ぶときに

〇〇な自分が好き

っていう価値基準は常に持っていて

だから人間はみな何かを選ぶときに

ほぼ確実に自分のことを客観視するわけで

そうするとどうしても他人から見た自分の姿を意識したうえで

それを受容できるかできないかの判断があるわけで

だから好き嫌いとか含めた選択には

常に他人からの目線というのを意識していると思う

っていう話は前にもしていたから

たぶん俺は永遠に同じことを考えて

思考を深めることはせず

考えてる振りをして

「ぶってる」んだろなあ。。。

 

偶然に生かされている話

いろいろしゃべりたい夜なので。

最近、「偶然に生かされているなあ」と思う。

車が突っ込んでくるとか、失うもの無い系の殺人犯とか、なんかそういう事故が多かったから。

人間は偶然に生かされている。

車がいきなり歩道に突っ込んでこないという偶然に生かされている。

通り魔とすれ違わないという偶然に生かされている。

人間は毎日毎時間毎分毎秒、99.9999999%外れるくじを引いている。

そして自分は22年間、たまたま当たりくじを引かなかった。

それだけの話。

たまたま東北に住んでいなかったとか。

それだけの話。

だから事故で死ぬことが不運なんじゃなく、今こうして生き続けていることが幸運なのであって、

そして明日当たりくじを引く可能性だってある。

そうやって偶然に生かされていることを幸せだと思いたい

3連休の最終日は眠れない。

正しくは眠らない。

眠ると明日が来てしまうので。

 

別に明日が嫌なわけじゃないんだけど

一週間が始まる前に、考えること考えてしまいたいみたいな気分になったりする。

 

まあ大したことを考えているわけじゃない。

例えば、部活やサークル、バイトの先輩や同期や後輩や、みんな立派な大企業に勤めていて、その中の自分がいかにちっぽけで、横並びの没個な存在であるかみたいな。

そんなしょうもない話。

23歳はまだ、自分はもしかしたら特別なんじゃないかって思っている。あ、この前23歳になった。

多分24、25と、会社の中であれやこれややっているうちに、自分が特別じゃないことに気づかされる。

でもそれは会社の中で自分が特別じゃないという話で、世間の中で自分が特別じゃないこととはイコールじゃない。

組織で評価される人間、そうじゃない人間はきっといる。

レールの上で特別になれない人間は、自分が特別を持っているか否かはレールから飛び降りてみないとわからないらしい。

まあ本当に特別じゃないことがわかっちゃったらしんどいからレールに乗っかってレールから降りられない理由を探して心のどこかで自分が特別なんじゃないかという希望を抱いたままその特別を見つけられずに死んでいく人生が、たぶん、普通。

普通だから、結局そいつは特別じゃなかった。

逆に言えば、実はレールから飛び降りた時点である種の特別になれるんじゃないか。

飛び降りる勇気があることは、飛び降りる勇気があるという一点において、マスに対して特別なのではないか。

その先に何の特別も見つからなかったとして、またレールにひょっこり戻ったとして、レールに戻ることもかなわずに行く当てなくさまよったとして、

レールの上からそれを笑う人がいたとして、

レールから飛び降りた時点で、レールから飛び降りられない人からすれば、特別だ。

もちろん飛び降りた先には飛び降りた人しかいないから、その中で特別になるのはこれまた難しいだろう。レールの上のほうが向いてたなあって後悔する人もたくさんいるだろう。

でも上のほうが向いてたなあなんていうのは下になってみないとわからない。上も下も向いてないかもしれない。上のほうが向いてたけど下のほうが楽しいかもしれない。それは上にいるだけじゃわからない。

とりあえず何が言いたいわけでもないけど。

特別というのは、どの集団に対して特別かという話で

俺が属してきた集団に対してという意味なら、大企業を辞めた時点で特別。

もっと広い世界を見たら、会社作ったとか社長になったとかなったらまた特別。

もっと広い世界を見たら、社長として何億稼いだとか、上場させたとかなったらまた特別。

もっと広い世界を見たら…と、結局上には上がいて際限ない特別がいる。

でも特別になるためにはどこかで他からはみ出なくちゃいけない。

抜きんでる必要はない。はみ出ればいい。はみ出れば特別だ。

と思う。

まあ僕は僕であるだけで僕という特別なんだとはいえるけども

僕の特別を保証する人間はいない。家族くらい。

まあそれはどうでもよくて。

はみ出たいなあと思う。

はみ出ようと思ったらそれは早いほうがよくて。

ずっと30までには会社辞めて、みたいに思ってたけどきっとそれじゃ遅くて。

もしかしたら今の会社で働いている一分一秒さえ無駄かもしれない。

まあ無駄ではないんだけど。無駄と思うことは絶対によくないんだけど。

まあそんなことを思いながら時計の針はグルグル回っていて

こうやって文字を書いている時間が一番無駄だろうと、早く寝て明日の仕事に備えろよというのが普通の思考なんだろうけど。

僕は良くも悪くも特別なので。

三連休の最終日は、オールで仕事に行くのです。

特別なので。

 

ラブ・アゲインという映画を観た話

ネタバレでしかない

印象的なシーン

・ジェイコブがチンコ丸出しにしてるシーン(見えてないけど)

・ジェイコブがキャルのスニーカーを見て学生か?スティージョブズか?違うならスニーカーを履く資格はない、みたいなこというところ

・ジェイコブがびりびり財布つかってるところ。

・なんかダサくて話がつまんないところとか総じて俺みたいじゃんと刺さった

・エミリーが「給湯器の使い方がわからない」と嘘を付いてキャルに電話をかけるシーン。それをキャルは庭で見ていて、給湯器のテキトーな使い方を喋って終わる。

・ロビーがいちいちかっこいい。never give up。

・ハンナが可愛い。エマストーン

・ジェイコブの彼女がハンナでハンナがキャルの娘だとわかるシーン。ぶっちゃけハンナパートとどうつながるのかわかんなかったから笑った。

ジェシカの父親が乗り込んでくるシーン。

・そこにデイビットが現れてめちゃくちゃ。くそわろた。

・ロビーの卒業式。真実の愛なんてないと壇上で話すロビーを遮るキャル。15歳からのエミリーとの思い出を語り、エミリーに愛を告げる。

ジェシカが同級生にアドバイスされてとった裸の写真を卒業式でロビーに渡す。キチガイすぎ。

 

幸福量の話

人間が人生で得られる幸福の総量は、一定なのではないかということ。

ふたつの仮説がある。

ひとつめは、人間が人生で得られる幸福の総量は、どんな個人も同程度に収束するのではないか、ということ。

ふたつめは、個人が人生で得られる幸福の総量は、例えどんな選択をし、それがどのような結果をもたらしたとしても、結局は予め決められた程度に収束するのではないかということ。

 

ひとつめの話。

これは「上を見ても仕方ない」というのを自分に納得させる考え方に過ぎない。

でも、そう思えたら、なんとなく気が楽だ。

満足が新たな不満足を生む。

どれだけ有名人になったって、どれだけお金持ちになったって、人は完全ではない。

完全ではないから、どうやったって自分の満たされない部分に目が行く。それをクリアしたら、次の欲求が生まれる。欲求の誕生は即ち不満足≒不幸だ。

つまり人間は結局満たされることなんてないんだから、人間の幸福の総量は皆ある程度一定なんじゃないかっていうこと。

 

ふたつめは、単純な運命論。

自分の人生がどう転がろうと、それが自分。

何かを目指して努力できる人と、できない人。

努力できる人になりたくて、そうなれる人と、なれない人。

例え自分が「自分を変えたい」と思って何か行動したとして、それは「自分が変わった」訳じゃなくて、「自分を変えられる自分だった」というだけ。

結局自分は自分だから、あの時こうしていれば今頃、とかそんなのはマジで無駄。自分は自分でしかない。

だから自分の幸福量なんていうのはそもそも決まっている。努力しなかったこと、運が悪かったこと、それは過去の自分が未来を変えてしまった訳じゃない。これが決まった未来だったというだけ。

じゃあ努力することが無駄なのかと言うとそういう意味じゃなくて、努力できる自分なのかどうか、報われる自分なのかどうかというのも、やってみなければ分からない。

やってみてダメだったから、諦めるのか、またやってみるのか、どっちを選ぶのかも自分でしかない訳だ。

もしかしたらそれは自分がどうこうより、他人がどうこうというのを考える時にいいかもしれない。

他人が羨ましい、でも自分はそうなれない、なぜなら自分は他人じゃないから。

じゃあその羨ましい人を目指して頑張れるか。頑張れないとしても自分を卑下する必要はない。それが自分だから。

 

結局何かって

自分は自分、これから自分がどうしようと、その結果未来がどうなろうと、それは未来が変わったわけじゃなくて、自分がそういう自分だったというだけ。

でもそれじゃ、希望のあった未来が現在になって「この程度だったのか」って失望することになる。それはしんどい。

じゃあみんな幸せって同じくらいでしょと思っちゃえばいい。

 

まあ思えるかどうかは自分次第だよね。

だから結局幸せになれるかどうかっていうのはどこかで諦めることが大事なのかもしれないね。

 

ミルが「満足した愚者より不満足なソクラテスが良い」と言って人の喜びにレベルを付けてより高級な喜びを得ることを目指した(のかな?)としても、それは相対的に「満足した愚者より自分は幸せなんだ」と思うということで。けど逆に「それでも私には知らないことがたくさんある」と満たされない欲求を抱えることにもなる。

それなら満足した愚者であるほうが、自分は幸せだった、と死ぬことができるんじゃない?

でも満足した愚者になりたくないよね~それは不満足なソクラテスに見下されたくないからなんだよね。

結局他者の視線を自分から切り離すことが幸せへの一番の近道かもしれないな

逆に言えば他者からの視線を自分の幸せと結びつけて

どこの大学とかどこの会社とか年収とか家の大きさとか車とかそういう尺度で幸不幸を積み重ねるタイプの人は、他者からの視線で幸福になって他者からの視線で不幸になる。

じゃあそうじゃなくて自分の欲求に素直は人は?

どうなんだろう。そうじゃないからわからないや。

結局「満足した愚者より~」っていうのも人と比べた自分に過ぎないんだよな~

自分は自分の及ばない世界を感じることはできないからな~~~~

 

等と眠い頭で考えても結局答えは出ないわけで、そもそもめちゃめちゃ眠いから言ってることもめちゃくちゃだと思うからまた推敲したいなとは思うけど

まあそういうことは哲学者様に教えてもらうのがいいかもしれないですね

 

「幸せになりたい」というときの幸せってなんなのか、考えないとね

 

 

他人から見た自分を見る自分

 たとえば世界の誰からも見向きされなくなったとする。誰も僕に興味がなく、僕が何を食べて、何を着て、何を見て、聴いて、感じても、誰も関心を寄せない。そもそもそれをアピールする対象がいない。誰にも会わず、誰とも会話せず、SNSも存在しないから、自分が何をしようとも他人がそれを知る術がない。

 そんな世界に生きたとき、僕は一体何を食べて、何を着て、何を見て聴いて感じるのだろうか。

言葉

言葉を紡ぐ営みは、人を豊かにする。

人がモノを理解するとき、そこには必ず言葉が介在している。

つまり言葉を扱うことができない人間は、物事を本質的に理解することはできない。

例えばとても綺麗な写真ととてもおいしい料理があったとして

それはどちらも「やばい」と形容できるかもしれないけれど

それでは両者の「甚だ優れている」という部分しか手に入れることはできず

それぞれの本質を理解することはできない。

それらは「やばい」と形容されるが故に「やばい」ものとしてしか認識されない。

 

人は自分のことを理解しようとするときにも、言葉の力を頼る。

人は何かを考える時には言葉を使わざるを得ないのだから当然だ。

しかしそこで言葉を持たない人は、自分の本質的な理解を得ることはできない。

なんとなくいい気分

なんとなくいやな気分

なんとなく好きな人

なんとなく嫌いな人

表現する適切な言葉を持たない人間は、知っている言葉のうちから感情や思考に近似する言葉を選択して使用するわけだが

当然言葉の引き出しが多い人間ほど、その本質に近似した言葉を選び取ることができる。

これは言語の特質にも依存するのかもしれないが、日本語はその点で色々な表現を残しているから、本質の表現に優れていると思われる。